FMラジオ局に出演

首都ポルト・オ・プランスから約30キロ西にある人口10万人の街レオガンは、いまだに停電だ。キャンプしている水会社は発電機があるので、一晩中大きな扇風機をかけている(蚊取り線香の次に蚊を防ぐ強力な兵器)が、夜はあたりは真っ暗になり、近所で発電機があるのは、街で一番大きなバーぐらいだ。
ある晩、完全に崩壊したカトリック教会を見に行ったら、外をうろついていた人に呼び止められ、かなりしっかりした灰色のテントに招き入れられた。
この4畳半ぐらいの空間が、街にあった5つのうち生き残った最大のFM局、ラジオ・アミカル(フレンドリーの意味)の臨時スタジオだ。
ジャッキーというDJ兼リポーター兼司会役が、マイクに向かい、パソコンで音楽を流し、ミキサーと音量調節機が細長い机に並ぶだけ。
私たちは、ハイチ出身のエバンスと、カメラ・ビデオグラファーのモーガン、ベルギー出身フォトグラファー、カティアン、私の4人。招待してくれたのは、ラジオ局の副社長で、約10分後の10時半からの番組にインタビューで出演してほしい、と頼まれ、緊急に出演。

(DJのジャッキー、右が副社長)
DJは、私たちがボランティアで来ているという背景も知らないので、嫌そうな顔をしている中、最初に出演したのが私だった。
DJは、ハイチなまりのない、きれいなフランス語で、きつい質問を浴びせかけてきた。
「あなたが、このレオガンにいるということで、どんな変化が起こせるのか。今、あなたの存在が人々になにをもたらしてくれるのか」
私のフランス語は錆ついているが、行間に「地震から2カ月もたって、のこのこと現れ、金も持ってこないとはなにごとか」という響きが、ありありと分かる。
私は英語で、「私が何が起きているのかを見て、遠く離れた日本の人々が、ハイチに起きたことを知ることができる。私があなたがたの『声』になる。日本は阪神大震災を経験しているし、地震の被害による苦しみを知っていて、ニューヨークの日本人社会も、文房具をたくさん寄付してくれた」と答え、エバンスがフランス語に訳してくれた。
DJは、さらに表現を変えて、同じことを何度も聞いてきて、私のインタビューは約20分におよび、終わった時は汗だく。彼は、さらにカティアンにも同じ質問を繰り返し、真っ暗やみの中で眠りにつく10万人を代表し、大したジャーナリスト魂をみせた。全員のインタビューが終わったのは11時20分になり、全員滝のように汗を流し、副社長も黒い額に大粒の汗を流して、ひとりひとりのマイクの音量調節をしていた。
DJは、最後には私たちがなぜここにいるのか納得したようで、メルアドを交換し、むんむんするテントを後にした。

(キャンプの子たちは、水会社の人が周りにいないと、さっと敷地内に来て、食べ物をねだる。大きな子は小さな子に必ず分ける)