カラマズー

2009年12月5日(土)

三田文学冬季号に載っていたジェフリー・アングルス(日本文学研究者)の「永井荷風とカラマズーとその時代」を読んで、驚いた。
まず、荷風ミシガン州カラマズー(Kalamazoo)にいたということ。なぜなら、母校のフェリス女学院で中学生のころ、ここからMr. Wennerという先生が来ていたからだ。180センチ以上の長身で、教室の入り口で背をかがめて入ってきて、黒板に自分の名前とKalamazooと書いた。そこから来た、というのだが、「動物園から来たんだ!」と残酷なティーンエイジャーはみなで大笑いした。
アングルスの評論を読んで、笑ったりして、大変申し訳なかったと痛感している。というのは、カラマズーでは日本への関心が歴史的にかなり高かった様子がうかがえるからだ。
Mr.Wennerは教会から派遣されてきていた(と記憶している)が、そういう歴史がある都市から来たという自負もあったろうに、黒板に地名を書いた途端、中学生に一笑にふされた。
アングルスの記事は以下の通り。
荷風は1904年から学生として1年弱滞在した。到着したころ、日本はロシアと旅順港で激戦中(偶然だが、今読んでいる「坂の上の雲」も旅順海戦のところだ)。列強国に加わろうと、近代的な軍隊を持って20年もたたない小国が、巨人ロシアを相手に健闘しているので、ミシガン州のKalamazoo Gazette一面に毎日、日露戦争の戦況が掲載された。少し前、阿部前首相が渡米しても一行も報じられないのに比べると、異常な関心の高さだ。
戦況だけでなく、日本人の「胆力・決断力」、「死の感性」「柔術」「武士道」などについて長文の特集記事が次々と載った。
全米で初めて、女性の手で作られた婦人図書館でも日本についての講義が開かれていた。
こうした「日本熱」に、荷風も講義を行うなど、多少は貢献した、というのが評論の内容だ。
ちなみに当時の人口3万人、現在8万人弱、という。
日本もこのころ必死に諸外国から学ぼうとしていたが、米国民も今に比べるとはるかに、知らない国のことを知ろうという気持が強かったように思う。Kalamazooに行ってみたいものだ。